我慢した先に幸せが待っているわけではない

こんにちは、暇人の冷川(ひやかわ)です。

先日、個人事業主として建築の仕事をしている僕の友人のところの従業員2人が突然辞めてしまったそうです。

友人と辞めた2人を合わせて3人で現場を周っていたのに、一気に2人も辞めたので、その友人は1人で働くことになってしまいました。

でも、よくよく話を聞くと、その友人と辞めた2人はあまり馬が合わず、ちょくちょく衝突していたみたいでした。

そんな中でも1日10時間以上一緒に過ごさなければいけないのは我慢の連続だったと思います。

そんな仕事をして夜遅くに帰っても、まだ仕事に慣れない2人の従業員のために2時間程かけて図面を描くということまで毎日やっていました。

その努力や我慢は大変なものがあったと思いますが、それでも2人の従業員は辞めて、振り出しに戻ってしまったのです。

もちろん、友人に全く過失がないかと言えばそうじゃないと思うのですが、でもこの話を聞いて、我慢したからといって物事がいい方向に進むわけじゃないんだなーと思いました。

我慢すること=美徳な日本人

「我慢することは偉い」とか「頑張っていれば報われる」というのは日本人特有の感性のように思います。

もともと我慢は美徳だと刷り込まれ、集団のためには個を犠牲にする教育を受けて育ったわけですから、苦痛を耐えることに関しては日本人は人一倍得意です。

周りを見渡しても同じように我慢している人が多数派なので、それが自然な生き方であるというふうに判断しがちです。

もちろんその価値観のメリットもあると思いますが、僕にはデメリットの方が大きいように感じてしまいます。

なぜなら、我慢は美徳という価値観の根底には、

「いつかは報われるだろう」

という期待があるように思うのです。

そして、その期待とは『幻想』であるからです。

2人の従業員を失った僕の友人のように我慢をしたから報われるわけではないんですね。

我慢をしたら報われるのであれば、高温のサウナに一番長くいることができた人も、トイレを限界まで我慢した人も、何かしらの恩恵を受けるはずです。

でも我慢したからと言って何かあるわけではありません。

これに気づかずに、

「今は我慢の時だ」

「これを乗り越えたらいいことが待ってるんだ」

と思っていても、何も起こらずそのままあっという間に歳を取ってしまいます。

我慢の先にある期待は幻想です。

我慢したから報われるわけでも物事がうまくいくわけでもないんです。

現状を変えたいのであれば我慢するという選択は賢くない

であれば当然、我慢をしなければいけない環境に身を置く必要は1ミリ足りともないのです。

例えば、生活費を稼ぐために残業だらけのブラック企業で働いているとして、その場合、我慢の対価として確かに残業代はもらえますが、その分人生で最も大事にすべき「時間」を犠牲にしてしまっているわけです。
(もちろん、時間よりお金の方が価値があるという人の場合は例外ですが…)

さて、この人は我慢をした先に大事な時間を得ることができるのでしょうか?

むしろ残業した時間は戻ってこないので、僕には我慢した分だけ大事なものを失っているように感じてしまいます。

自分の得たいものや理想の状態など、自分の定めた目的地に行くために必要な我慢であればそれは迷わず許容すべきでしょう。

でも、自分の目的地とは全く無関係な我慢、特に他人に頼まれたり、会社のルールに伴う我慢というのは何の意味もありません。

何度も我慢をして強くなったら何かあるんでしょうか?

我慢をした分だけ立派な人間になって周りから尊敬される人物になれるのでしょうか?

本質は我慢じゃありません。

大事なことは、『自分は何のためにそれをやっているのか?』ということです。

今、我慢の毎日を送り、これでいいのかな?と悩んでいる人は、ぜひ、自分の人生の目的や自分の人生にとって大事なものを1度考えてみることをオススメします。

僕はそれが現状を変えたり、人生をいい方向に進めるために大事なことなんじゃないかと思います。

 

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